紳助が司会者で成功

Pocket

 35才で任されたTBS『オールスター感謝祭』(1991年秋)の成功を本人は自賛しているけれども、紳助を漫才師と思っている人たちにはピンとこない。
 引退間際が「大物司会者」だったので、錯覚している人もいるが、紳助は漫才ブームからずっと先頭を走っていたのではなく、本人の言い方を借りれば、さんまに対して「周回遅れ」だった期間が長かった。

 もともと、若者にターゲットをしぼり込んだ漫才でスタートした紳助がゴールデンタイムの司会者として、全国区全世代仕様になったのは、2002年にはじまる『行列のできる法律相談所』からだ。
 その司会術を確立したのは、関西ローカルの『クイズ!紳助くん』である。『クイズ!ヘキサゴンII』で「おバカタレント」なるものを開発するのも、もとをたどれば、『クイズ!紳助くん』にゲスト出演した藤谷美和子あたりの珍解答がヒントだろう。

 最後は、ヤクザとの交際が発覚して引退する紳助が残した功績のひとつに『M-1グランプリ』の企画と審査委員長としての出演がある。この漫才のコンテストは、紳助が漫才への恩返しのつもりでスタートさせ、見事に役目をはたした。
 興味深かったのは、島田洋七が審査員として登場したことで、意外にシャープなコメントをし、漫才ブームの起点となったのが偶然ではないことを証明した。

 洋七と紳助のちがいは、洋七が漫才をしていないときも漫才師なのに対し、紳助の本質が漫才師ではないことだ。

 だからといって、紳助が芸人ではない、と言っているのではない。過去の漫才で使っていたネタを司会者としてフリートークの中に織り込んで笑わせるのは、一般の視聴者が考えるよりはるかにむずかしい。そのネタを知っているから笑うというのとは、次元がちがう。はじめて聞く人がおもしろい話として笑うのだ。これにはもちろん技術の問題もあるが、もともとのネタがせまい意味での漫才とはちがう種類のものだからできる。
 
 
【関連記事】
 島田紳助を漫才界に踏み込ませたのは
 紳竜の戦略
 紳竜の漫才における批評性
 紳竜漫才の特徴とブームへの批判
 紳竜漫才のセンス
 紳助・竜介の解散
 DVD化の要望が多かった深夜番組『松本紳助』