1970年、ある貧しい青年が〈うめだ花月〉の客となった。そのとき出演していた笑福亭仁鶴がベンツ、中田カウスがポルシェで帰るのを目にした。
「15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」
とても簡単そうだった。まず、〈うめだ花月〉の進行係として採用され、その後、美人の今喜多代を妻にもつ島田洋之介に弟子入りした。
2年後、コンビを結成。翌年には相方を変えなくてはならなかったが、すぐさま数々の賞を受賞。2年たって、東京進出を考えるものの、相方がビビッて解散。3度目のコンビのときに、〈洋七〉と改名した。
島田洋七が東京に行きたがったのには、全国ネットのTV番組に出演して、母や祖母に活躍している姿を見せたいという理由があった。直接の原因は、番組内で結成された若手グループからB&Bがはずされたからだ。
かわりに起用された紳助・竜介が大きな人気を得たことから、吉本興業への不信感をつのらせた島田洋七は1979年、事務所幹部や芸人仲間らの反対を押し切って、相方と2人、東京へと旅立った。解雇通告とひきかえに。そのとき、29才。
B&Bの漫才の特徴は、漫才と言いつつ、早口の洋七が1人でしゃべりまくることで、相方の洋八は、ほとんど合いの手、相づち程度しか口にしない。本人たちによると、ネタ合わせもしない。
有名になったキャッチフレーズが、
「もみじまんじゅう!」
で、少しぽっちゃりした体型の洋七が陽気にモミジの葉の形を両手で大きく描いてみせる。もともとは、出身地の自慢合戦をするネタで、広島出身の名物として言ったのがはじまり。相方が岡山出身なので、キビダンゴをけなす。具体的な批判じゃなくて、洋七の言い方の加減で笑いをとるもの。これがウケたので、前後の脈絡なく言うようになった。
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