声で歌を解釈する戸川純の「17才」は森高千里版とまったく異質

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 職業歌手というのは、その人の歌う意味がなけりゃいけないと思う。戸川純はもともと〈七色の声〉とか言われてる声の演技派だけど、この人の歌う「17才」をYouTubeで見て、もう少し突っ込んだ考えが浮かんだ。

 というのも、70年代アイドル南沙織のために作られた「17才」には、森高千里の有名なカヴァー・ヴァージョンがあるからだ。

 森高千里は森高千里で悪かぁないんだが、アルバム『非実力派宣言』は「17才」からはじまるんだ。森高千里の作詞の才能が爆裂した『非実力派宣言』で、「17才」が他の位置にあったら、違和感があっただろう。どうしても、70年代アイドル歌謡の限界みたいなものがその歌詞世界にあるからだ。

 ところが、自作歌詞のヘンテコさではバツグンの戸川純が「17才」を歌えば、まったく戸川純の歌になってしまう。

 原曲の南沙織のイメージというのは、南国少女である。歌詞は青春を謳歌する内容だ。それを89年の森高版はその個性によって、なつメロではなく、バブル気分の当時の〈いま〉の歌として通用させた。

 それが戸川純が歌ったとたん、ウブな文学少女の歌に変わってしまう。戸川純だから、ウブといっても清純とは無縁で、「さよならをおしえて」なんかのおそろしい世界に突入していくのだが。

 で、思ったんだけど、戸川純の作詞がもつ独特のムードはじつは歌唱由来の部分が相当にあるんじゃないか。それでこそのシンガーソングライターだ。

 森高千里がコスプレイヤーだとしたら、戸川純はやっぱり女優なんだね。根っこにあるのは。その上にあの歌唱があって、それをベースにした作詞がある。

 クセのあるパフォーマンスの部分だけで、歌手・戸川純を云々するのは幼稚だ。

  「さよならをおしえて」 ⇒ 収録アルバムはこちら
 
 
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