漫才ブームのおわり

Pocket

 吉本興業は紳助・竜介に注力した。

 他にも、漫才ブームによってTVの状況が変わってくると、いろんな大人の事情が顔を出しはじめる。

 『笑ってる場合ですよ!』は82年10月1日におわり、『THE MANZAI』もおなじころ、11回目が最後となった。漫才ブームは沈静化していた。『ひょうきん族』がはじまるころには、漫才ブームそのものはあきられていて、芸人たちはTVタレントとしての生き残り合戦に突入していた。

 『ひょうきん族』の売りのひとつは『THE MANZAI』に出ているコンビをバラバラにし、コントやパロディを演じさせることにあった。オープニング・タイトルはビートたけしと島田紳助の顔になっている。

 一方、『笑ってる場合ですよ!』の後番組『笑っていいとも!』は、漫才ブーム以前に一部の愛好家に注目されていた密室芸人タモリを昼間にひっぱり出して、予想外の成功をおさめた。

 これらの番組は、すべてフジテレビのプロデューサー・横澤彪が手がけている。このときの横澤彪の判断が漫才ブームの立役者である島田洋七(B&B)を完全に消してしまった。横澤彪は自著で、タモリの起用を自賛しているが、洋七をなぜ切ったかについてはふれていない。洋七自身は『ひょうきん族』の〈タケちゃんマン〉も当初〈洋ちゃんマン〉の予定だったと言っている(この話じたいは洋七の脚色かもしれない)。

 よけいな勘ぐりはひかえたいが、島田洋七が吉本を出た人間であることは記しておいていいだろう。のちにフジテレビを退社した横澤彪は吉本に入った。

 関西テレビ制作の『名人劇場』で漫才ブームを仕掛けたプロデューサーは『てなもんや三度笠』のディレクター・澤田隆治である。その澤田に東京進出を進めたのは『シャボン玉ホリデー』を世に出した井原忠高だった。こうした流れがここでいったん途切れた。

【参考データ】

『THE MANZAI』

 第1回(1980年 4月 1日)
 第2回(1980年 5月20日)
 第3回(1980年 7月 1日)
 第4回(1980年10月 7日)
 第5回(1980年12月30日)
 第6回(1981年 3月31日)
 第7回(1981年 6月30日)
 第8回(1981年 9月29日)
 第9回(1981年12月 8日)
 第10回(1982年 3月30日)
 第11回(1982年 6月15日)

『笑ってる場合ですよ!』

 1980年10月1日~1982年10月1日

『森田一義アワー 笑っていいとも!』

 1982年10月4日~2014年3月31日

『オレたちひょうきん族』

 1981年5月16日~1989年10月14日
 
 
【関連記事】
 『THE MANZAI』スタート
 『笑ってる場合ですよ!』と『オレたちひょうきん族』もはじまる
 漫才ブームのおわり

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください