『我が道を往く』はヒューマニズム・コメディの秀作

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 コメディといっても、ゲラゲラ笑わせるものだけとは、かぎらない。ハートウォーミング(心あたたまる)映画のように微笑ましいものもある。

 『我が道を往く』は有名なアカデミー賞作品で、〈ゴーイング・マイ・ウェイ〉という言い回しはいまだに使われる。

 アメリカ民主主義の善意を前面に押し出した教科書向け、アカデミー賞向けの内容でありながら、堅苦しくならず、楽しめる古き良きハリウッド映画の1本だ。

 この映画に、ストーリーらしいストーリーはない。ビング・クロスビー演じるオマリー神父がある教会を立て直すために派遣されるというだけのことで、あとは立て直す過程がエピソードの形で積み重ねられていく。そして、見事、立て直した彼はまた次の教会へと去っていく。

 現代の映画会社の企画会議だと却下されそうなほどの単純さだが、そこは歌手でもあるビング・クロスビーの飾らないコメディ演技という味で見せる。

 若いオマリー神父は改革のエキスパートであり、ダメ教会の後任として派遣される。前任者は彼をたんなる助っ人としか思っておらず、自分がクビになったことをわかっていない。しかし、オマリー神父はそれを告げることなく、助手の立場に甘んじる。これはストーリー上の工夫であると同時に、オマリー神父の性格をあらわす。

 ストーリーの前半は、若いオマリー神父のやり方を気に入らない前任の老神父が小言を言うという世代間の対立が中心になる。

 これに対し、オマリー神父はイヤ味のない独自のやり方で反撃する。たとえば、七面鳥泥棒の兄弟を見逃してやるという方法で、悪童たちの気持ちをつかんだあと、信者からの差し入れと思って、老神父がおいしくいただいている七面鳥が兄弟の盗んだものであることに気づかせ、共犯にする。

 オマリー神父がすばらしいのは、何十年も教会に尽くしてきた老神父に敬意をもっていることで、やり込めるといっても敵対するわけではない。

 一方、上から目線で接する老神父のコッケイさは、オマリー神父をクビにしてもらおうと出かけていくところでピークに達する。真相を知ってからの後半は、人生を楽しむことに目覚めた老神父がハシャぐようすへと笑いのポイントが変わっていく。

 オマリー神父は、声高な説教はせず、民主主義やヒューマニズムがなんたるかを口にすることもない。それがどういうものかは、彼のひょうひょうとした行動を見ればわかる。

 若いカップルを応援し、悪童たちには合唱の楽しさを教えて善導していく。悪は少年たちの内にはなく、環境によって変わる。

 彼自身、昔の恋人との再会という小さなドラマを経験する。彼もひとりの人間なのだ。2人はいまや住む世界がちがってしまった。

 老神父はいまやすっかり心を許して、何十年会っていない、さらに老いた母への思慕を語るまでになった。

 最後に、教会の消失という事件が起き、打ちひしがれる老神父にオマリー神父は勇気をあたえる。再建が成ったお祝いの夜、こっそり去っていく彼は、置き土産に、老神父への思いやりを示す。これを見て、あたたかい涙を流さない観客は、よっぽどのひねくれ者だろう。
 
 
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■監督: レオ・マッケリー
 
 
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