アイロニカルな会話

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「あんた、かしこいな」
 と言われて、キミはどう感じるだろう。字面はわりとニュートラルに見えるが、これは関西弁のイントネーションで発せられる。
 これをこのまま標準語に変換すると、こうなる。
「あなたは賢い」
 しかし、この2つの言葉はまったく異なる。少なくとも、我が家ではそうであった。
 ボクは生まれたときからずっとおなじ家に暮らしており、そこは阪神間でも独特のクセがあるらしい地域だった。
 らしい、というのは、周辺の関西人にはそう聞こえるようだという意味である。ボクはほとんど大阪弁(河内でなく、摂津の方)とおなじではないかと思っているが、ボクが20才のころ出会って追いまわしていた3つ上の北摂美女は、
「なんか、高くない?」
 と言った。音程が、という意味だった。ボク個人に対しての評ではなく、住人の特徴として。あるいは、京都出身の芸人がこんな風にTVで言っていたのを聞いたことがある。
「なんで、あんな声デカいねん。工場地帯やからか」
 そういう話になったとき、周囲の人間も反対をしない。これが阪神間の他の地域であった場合は、ことさら、その地域をきわだたせて、○○弁ってあるよな? みたいな言い方されるのを聞いたことがない。
「あんた、かしこいな」
 とボクに言うのは、主に母親だった。ボクの母親は、神戸の下町の商売人の娘だ。まあ、方言というのは、各種ブレンドされてできているものである。この表現がどの程度、普遍性があるものか知らぬが、便宜上、関西弁の表現のひとつとしておく。
 ここでしたいのは、
「あんた、かしこいな」
 の意味するところが伝わらないことがあるという話だ。それをボクがはじめて耳にしたときのことを覚えている。
 我が家の居間のテーブルのそばでのことだった。母がまだ幼かった弟に向かって言ったのだ。
「あんた、かしこいな」
 すると、弟は泣き出してしまった。
「ボクはかしこくないー」
 直前に、弟はなにか失敗をやらかしていたのだ。母の言葉はそれに対する批評だった。
 端的に言えば、皮肉である。
 このとき、2つ上のボクはすでに「あんた、かしこいな」の用法を得とくしていた。そして、目のまえの弟が理解できていないことも理解していた。だから、
(弟とボクはちがう)
 と思った。それで、いまだにこうやって記憶しているのだ。弟の名誉のために記しておくと、弟もその後、成長して、「あんた、かしこいな」が理解できる人間になった。
 ここで問いたいのは、では、世間の人はどうなのだろうということだ。ある年令に達すれば、みな「あんた、かしこいな」が理解できるのだろうか。それ以前に、トシさえとれば、人は成長できるのあろうか。
 ボクの母は、「あんた、かしこいな」以外にも「あんた、かしこいな」的表現を多用する人であった。ボクはこの「あんた、かしこいな」的表現の影響をものすごく受けた。ボクの会話の主成分と言っていい。
 ボクがいかに「あんた、かしこいな」に染まっていたかを示すエピソードがある。ずいぶん大人になってからのことだ。実家の玄関のクツべらをひっかけるフックがなくなっていた。神経質なボクはそれが気になって、家の〈なんだかよくわからないもの入れ〉をあさって、カーテンレールで使うフックのあまりを見つけ出し、それをもってきて、クツべらをひっかけるようにしたのだ。そのようすをたまたま母が見ていた。
「あんた、かしこいな」
 えっ。
 内心、ボクはあせった。どんな失敗をやらかしてしまったのだろう、と。母の言葉のあとのわずかな間と空気によって、それはたんにホメてくれたのだと悟った。しかし、悟るまでの一瞬に、もっと簡便な方法があるのに気づかぬ愚かさを責められたのか、と思ったのだ。もはや、言葉をそのままの意味に受け取れない病と言っていい。あやうく、
「ボクはかしこくないー」
 と叫んでしまうところだった(この場合は、否定の否定だから肯定ね──ほら、こういう、ひねった表現をつい使って、訂正しようとしないのが病の証だ)。病は重症化し、社会的には敗残者となって、親を悲しませた。
 一方、弟は自分で話すときは、もっとストレートな言葉づかいをする。そのかわり、母から抜群の社交性を受け継ぎ、立派な大人になった。なんとも皮肉な結末である。
 さて、個人の話はここまで。ここからは、人類の歴史についての話である。正史と呼ばれるものは勝者(=征服者)の歴史として語られるのが常である。ところが、文化に関しては、敗者(=被征服者)を通して、よく伝えられるという。とくに、言語やそれを使った物語などは。
 征服者の男が被征服者の女を妻とし、子をつくるが、その子を育てるのは妻やその家族が主に担ってきたからだ。
 文化というのは、家族間のちょっとした会話、言葉の言いまわしなどにささえられて伝承されていくものだ。ところが、いまこの国は、核家族化が進み、少子化が進み、生涯未婚率が増えている。文明が発達した社会では、ひとり暮らしの方が楽だ……なんて言っているうちに、どんどん言葉が失われていく。
 なーんて、エラソーに言ってはみたものの、そういうボク自身がこれを書いている時点では、独身なんだけどね。