1970年の音楽状況●阿久悠『A面B面』を参考に

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 阿久悠は1937年の早生き。淡路島の出身だ。もとはシナリオライター志望で、大学卒業後、広告代理店に勤めていた。28~29才でやめて、しばらく構成作家として、てんぷくトリオのコントなど書いていたが、GSが登場し、既成の作家で手がけなかったので、おはちがまわってきた。そのデビュー作を書いたのは、32才のとき。65年にリリースされたスパイダース「フリフリ」(作詞/作曲・かまやつひろし)のB面だった。

 それまで、〈歌〉は恥ずかしいものだったが、フツーの言葉でも歌詞が書けると知ったのが、水原弘が歌った59年の「黒い花びら」(作詞・永六輔/作曲・中村八大)という。

「音楽の形態が昭和四十年(65年)くらいから変わってきた。要するに、人間がしゃべるときの呼吸みたいなものがね、必ずしも七五の呼吸でしゃべっている状況じゃなくなってきて、むしろ四四、四四ていう四拍で語って転ばしていくほうがスムーズに通じる」

 その阿久悠が立てつづけにヒット曲を飛ばして、世間に名を知られたのが、70年。奇しくも、はっぴいえんどが日本語ロックの幕開けを告げるアルバムを発表した年である。ここから、それまでの歌謡曲とはちがうフィールド──クサい言葉でいえば、〈作家性〉というようなものをもった日本のロック&ポップスがはじまった。それまでにも、すぐれた作詞家やミュージシャンはいたが、従来の商業ラインとはちがう人たちが出てきた。

 ボクが阿久悠に共感するというか、ふだん思ってることをおんなじこと言ってんなと思ったのが、次の言葉だ。

「作詞のシの字が、要するにポエムの〈詩〉の字を使うレコード会社と、〈詞〉の字を使うところがあって、本来の作詞家はポエムでないとプライドを傷つけられたように思うわけですよ。ぼくは、いや、こだわらないと、むしろ〈詞〉のほうがいいみたいなことを言ってた」

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