海外の大物アーティストが立てつづけに亡くなる2016年上半期。ジギー・スターダストだのEarth, Wind & Fireだの、それぞれがそれだけでも、極めつきな感じだったのに、ついに、プリンスまで。
でね、プリンスの偉大さを語りたい人たちは勝手にしてくれたらいいけど、Amazonだったかで「岡村靖幸」を検索したら、『プリンス論』って本が表示された。著者は岡村ちゃんじゃない、西寺郷太。いや、ノーナ・リーヴスに文句があるのじゃなくて(好きだし)、プリンスと岡村ちゃんが関連づけられてることがどーなだっていうね。
デビューからしばらくして岡村靖幸が話題になりはじめたころに、「和製プリンス」って言われ方があって、あれが気に食わなかった。まだ引きずってるのか。たとえば、「和製ポップス」と言えば、日本人が作った日本語の歌で、アメリカン・ポップスのようなフィーリングを出したもの。とすると、和製プリンスってのは、日本人がやってるけど、プリンスっぽさを感じさせるってことだろ。プリンスを日本語でやったら、こうなる的な。
それ、岡村靖幸じゃないよね。プリンス・ファンが岡村靖幸にプリンスの感じを感じようが、岡村靖幸自身がプリンスの方法論を積極的に取り入れていようが、そんなのは別問題だ。和製プリンスって言葉では、岡村靖幸を代替できない。
こういうレッテル貼りは昔からあるけど、それって、けっきょく、レッテルを貼ってもらわなきゃわからないクセにわかったフリをしたいやつらのためのものだろ。わからないやつはわからなくていいよ。
立場をあらわすのに、「○○みたいな」とか「日本で言えば、○○」と表現するのは解説としてありだけど、創作物に対して「和製プリンス」なんて言い方が成立するのは、本人が和製プリンスを目指してて、周囲もなるほど和製プリンスだってうなずくデキの場合だけだ。
『プリンス論』 ⇒ 詳細はこちら