森昌子「せんせい」

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 ○作詞:阿久悠
 ○作曲:遠藤実

 1972年7月発売(34万枚/年間30位)
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 このとき、森昌子は13才。
「演歌はうまいけど、ほんとに子供に見える子でね、あの子に『涙の連絡船』みたいなの歌わせてもだめだろうと」
 テレビ時代で、顔が見えるから、ゲテものになってしまうという判断だった。
「かといってポップスの子じゃないし、子供が歌える演歌ってないかっていうんで、『せんせい』作ったわけですね。自分で非常に照れながら書いてね、淡い初恋なんていう言葉が、いま、あるだろうか、先生に恋する、ほのかに先生を思うなんていう状況が、いま、あるだろうかと」
 はじめはジュニア演歌のつもりでやったのに、これが売れたんで学園シリーズでいきましょうということになり、こまった、と阿久悠は語っている。
 ところで、阿久悠が森昌子の歌を手がけるまでには、テレビ界における政治的な流れがある。
 当時は渡辺プロダクションの絶頂期で、その横暴さに日本テレビのプロデューサーだった井原忠高が激怒する。ある番組編成上の衝突から73年4月に〈全面戦争〉へと突入するのだが、そのとき、日本テレビの武器になったのは、欽ちゃん司会で71年からはじまった『スター誕生!』だった。
 詳細は参考文献にあたって欲しい。ひとことでいえば、ナベプロのタレントなしにヴァラエティ番組が作れない時代だった。構成作家やTV局のディレクターはナベプロ派か反ナベプロ派で分けられ、構成作家もしていた阿久悠は反ナベプロ派を一手に引き受けるような立場にあった。
 日テレは『スタ誕』で見つけた金の卵を自局の数ある音楽番組に出すことでホントのスターにしてしまおうと目論んでいた。設立したばかりの子会社がレコードの出版権をもつことで、大いにうるおう。たとえば、『紅白歌のベストテン』の新人コーナーに出すと、レコードが何千枚か売れたという。
 そして、最終的には、日本テレビ音楽祭で賞を出す。
「レコードの売り上げ成績だとかそういうのとは関係ない。日本テレビに貢献のあった人にしか賞をやらない」
 と井原忠高が決めた。
 さらに、ナベプロなしで戦うため、その他のプロダクションに協力を要請した。そのかわり、『スタ誕』の合格者を分配する、と。
 そうした流れで、森昌子や山口百恵がホリプロ、桜田淳子はサンミュージックに所属することになった。阿久悠は審査員を務めていた。
 日本を代表するスカウト番組となった『スタ誕』は、その後も、岩崎宏美、ピンク・レディー、小泉今日子、中森明菜などを輩出することになる。
 世の中はアイドル花盛りとなり、ナベプロは業界における影響力を低下させていく。

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